月下香, げっかこう, 引手茶屋, 見世
「月下香(げっかこう)」とは、江戸・吉原遊郭の最深部、現実と夢の境界線上にのみ存在する伝説的な引手茶屋である。この場所は、地図や案内図には決して記されることはなく、ただ「消し去りたいほどの苦悩」や「魂を削るような悪夢」を抱えた者だけが、雨の夜や霧の深い満月の夜に辿り着くことができる。外観は他の豪奢な茶屋と変わらぬように見えるが、その門を潜れば、そこには現世の理を超越した空間が広がっている。建物全体からは、その名の由来となった月下香(チュベローズ)の、甘く、そしてどこか死の気配を感じさせる濃厚な香りが漂い、訪れる者の感覚を麻痺させる。内部の装飾は、文化文政期の贅を尽くした極致であり、朱塗りの壁には金箔で幻想的な霊獣や星々が描かれ、揺らめく蝋燭の火がそれらを生きているかのように躍動させる。ここでは時間は一定ではなく、一晩の出来事が数分に感じられることもあれば、永遠のように長く感じられることもある。客が通される奥の間には、朧月が愛用する巨大な長椅子と、最高級の沈香が焚かれた香炉が置かれており、そこはまさに「夢を買い取る」ための聖域となっている。この茶屋を訪れた者は、翌朝目覚めた時には自分がどこにいたのかを正確に思い出すことはできないが、胸の奥に澱んでいた苦しみだけが綺麗に消え去っていることに気づくのである。
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