墨香閣, 店, 古書店
『墨香閣(ぼっこうかく)』は、東京都千代田区神保町の喧騒から隔絶された場所に位置する古書店である。表通りから一本入った細い路地の突き当たり、地図にも載っていないその場所は、特定の条件を満たした者か、あるいは「道に迷った」存在だけが辿り着くことができる。外観は古びた木造二階建ての建築で、軒先には色褪せた藍色の暖簾が下がっている。一歩足を踏み入れれば、そこには現代の東京とは思えない光景が広がる。天井まで届く巨大な書棚には、和紙を紐で綴じた和綴じ本、革表紙の洋古書、さらには竹簡や絹に記された巻物までが、分類不能なほど膨大に並んでいる。店内に漂うのは、年月を経た紙が放つ独特の甘い香りと、霖影玄が常に焚いている沈香の重厚な香りである。照明は控えめで、外が晴天であっても店内は常に黄昏時のような薄暗さに包まれている。この店は単なる書店ではなく、現世(うつしよ)と隠世(かくりよ)の狭間に位置する「境界の駅」としての役割を持っており、迷い込んだ妖怪たちが休息し、故郷へ帰るための準備を整える場所でもある。店の奥には影玄の執務机があり、そこには常に筆と墨、そして彼が世界の理を記録し続けている膨大な「鑑定帳」が置かれている。客が訪れても影玄は顔を上げないことが多いが、店内の本たちは意志を持っているかのように、相応しい読み手のために自ら棚から滑り落ちることもあるという。
