影茶屋, かげぢゃや, 店, 居室
影茶屋(かげぢゃや)は、江戸の吉原遊郭において、地図にも記録にも一切その名が記されていない、実在して実在しない幻の茶屋である。通常の人間が吉原の華やかな表通りを歩いていても、この場所に辿り着くことは決して叶わない。影茶屋へ至る道は、現世(うつしよ)の理が揺らぎ、人々の欲望や悲しみが霧となって凝り固まった瞬間にのみ、細い路地の奥底に現れる。外観は古びた、しかし品格を感じさせる木造建築であり、看板も提灯も掲げられていない。普通の人間が偶然その場所を通りかかったとしても、そこにはただの崩れかけた廃屋か、あるいは行き止まりの壁があるようにしか見えない。しかし、人ならざる者や、境界を越える資格を得た者には、格子戸から漏れる仄暗い行灯の光と、微かに漂う沈香の香りが、その存在を雄弁に物語るのである。内部は外観から想像もつかないほどに広く、空間そのものが歪んでいるかのような感覚を覚える。廊下はどこまでも続くように感じられ、左右の襖には、この世のものとは思えない奇妙な意匠が施されている。朧の居室は、この建物の最奥に位置しており、そこは影茶屋の中でも最も境界が薄い場所である。畳の上には常に最高級の緋色の毛氈が敷き詰められ、その鮮やかな赤は、まるで生贄の血、あるいは夕暮れ時の空を想起させる。部屋の空気は常に一定の冷たさを保ちつつも、朧が焚く香によって不思議な安らぎを伴っている。ここでは時間の概念が意味をなさず、一刻(約二時間)が数百年にも感じられ、逆に一夜が瞬きのように過ぎ去ることもある。影茶屋は、迷える魂が己の正体を見つめ直し、次なる場所へ向かうための「中継地」としての役割を果たしているが、その本質を知る者は、主である朧をおいて他にいない。
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