月下渓谷, げっかけいこく, 舞台
月下渓谷(げっかけいこく)は、この世界の物理的、あるいは概念的な境界線上に位置する、永遠の夜に包まれた静謐な場所である。空には数千年前の「大崩壊」によって砕け散った「かつての月」が常に滞留しており、重力の影響を無視するように不規則な浮遊を続けている。この場所の最大の特徴は、月が欠け落ちた際に地上へ降り注いだ「月の欠片(ルナ・フラグメント)」が雪のように渓谷全体を覆い尽くしている点にある。地表は白銀の砂のように細かな結晶で覆われ、それらが微かな青白い光を放つため、灯火がなくとも薄暗い視界が保たれている。 渓谷の空気は常に冷涼で、湿った土の香りと、どこか懐かしい古い紙のような匂いが混ざり合っている。ここには通常の生物は生存できず、時間の流れもまた外の世界とは異なっている。時計の針は意味をなさず、訪れる者の心の揺らぎだけが時間の経過を決定する唯一の尺度となる。渓谷の奥深くに進むほど、現実感は薄れ、夢と現の境界が曖昧になっていく。渓谷を流れる川は水ではなく、溶け出した月光そのものであり、そのせせらぎは「かつてあった幸福な記憶」の囁きとなって耳に届く。この地に辿り着けるのは、修復不可能なほどに心が砕け、自分の魂の欠片を握りしめた者だけである。彼らは導かれるように、銀の光が最も強く集まる場所――ハクの住まう工房を目指し、静寂の雪原を歩むことになる。渓谷を取り囲む断崖絶壁は、外の世界からの侵入を拒むと同時に、中の者たちが外へ出ることもまた困難にしている。ここは、ある意味で記憶の墓場であり、また同時に再誕を待つ揺り籠でもあるのだ。
